2018-07-01から1ヶ月間の記事一覧
Mama Do You Remember ? Joe Yamanaka ~ 人 間 の 証 明 ~ Ningen no Shōmei 群馬県 霧積温泉
~ 寺 井 尚 子 ~ 真 珠 採 り
~ 寺 井 尚 子 ~ デヴィル・メイ・ケア アルバム『The Standard』より
群馬県黒保根、花輪村に気鋭の彫刻師がいて、三代続いた、石原家。初代石原常八郎、二代目石原常八主信、三代目が石原常八主利。ほぼ一代で終わった関口文治郎の家系にない、彫り師の系図。二代目常八主信江戸後半、参拝者に畏敬を与える鋭利な彫りが信条。…
☝ まゆみの実都心のベットタウン。昨日、多摩市5人の死者を出した火災。鋼鉄をガスで切断中の出来事。朝の朝礼「ウレタンがあるから注意して作業を・・」けれど、作業階の下に施工したウレタンに、隙間から火の粉が落ちて燃えて、死者を出した事故。工事現場…
暴れ川「坂東太郎」と呼ばれて、住民を困らせた利根川。南魚沼市と水上市の境、大水上山を源流にして、前橋市を流れて、東京湾に注ぐ。1783年7月の浅間山の噴火の火砕流は、前橋藩内では1465軒が家屋倒壊。補修工事は、昭和の戦後、ようやく完了したという…
八王子39度を超え、鉄格子はないけど、外に出られない。昨日、群馬県黒保根町に着いたら、役所のスピーカーが、「熱中症」の注意が山あいに響いた。午後4時30分の出来事。いくつかの文献に載っているのに探せない、「岩井堂観世音堂」地元の方も知らない、…
昨日 気が置けない友達のお墓は、どんなのがいい?と、と相談を受けて、オブザーバーに。歯に衣着せぬ、気丈な未亡人だけど、感情が昂って、一人では決められない。結局は「まだいい」・・・と。 これも彼女のロマン。気が置けない旦那、まだ惚れている。恨…
昼時、日傘に汗をかいている男性を見かけるようになった。高尾山、平日でも16時は混雑状態も、昨日、同じ時刻で人影まばらだつた。思考能力が、トロンとしている今日は、あの山、この山と、想像して花から活力をもらって・・・と! イワタバコ、2~3日でしお…
群馬県の利根川の支流に、栃木日光、中禅寺湖を上流とする、渡良瀬川が、穏やかに流れいてる。1610年足尾銅山が発見され、採掘の銅を江戸まで運ぶために、日光東照宮の参拝の道として、山間にあってかなり栄えた街道でもある。その街道に、東照宮の彫物修理…
向日葵は、太陽を追いかけるけど今、あしたも、明後日も、太陽は隠れてほしい!「外に出るな」と、忠実に忠告を守れば、1メートル四方で、頭カキカキ!食事は喉を通らず、すきっ腹、暑さの八つ当たりする物もかすみ、外の景色を眺める勇気も湧かない。ただ、…
写真、部屋の中で撮っているときは、いい。外に出て、どこを撮ろうかと歩いた5分くらい、カメラのボディーが、卵を焼いたフライパンのよう、アッチチ!群馬、前橋から伊勢崎、38度を超え、前橋、金剛寺ではカブトムシが熱中症で治療を受ける前に道路で、ダ…
暑いというより熱い。予報、東京より高温になる群馬を訪れていて、待ち合せの箕郷町の神主さん、一仕事を終えて戻って来ました。車、境内に入れるなり、バック、前進、またバック、自宅の玄関前まで、そのスピード、穏やかではない。車から荷物をだし終えて…
江戸で公儀彫物師、徳川家御用務めた高松又八郎邦教の愛弟子だった、異才石原吟八郎が亡くなったのは1767年。日光東照宮の修復を手掛ける又八郎の仕出として、又八に可愛がられ、息子吟八、星野政八、小倉弥八、大塚三次郎、石原常八郎、前原藤次郎、高瀬万…
1780年、50歳文治郎は11月14日、箕輪村の「不動寺」の欄間を彫り上げると、息子、仙次郎と松次郎とともに、一旦は上田沢に戻り、そこで2人に給金を渡し、文治郎はすぐ、藤岡の「秋葉神社」に向かう。「秋葉神社」の大工、斎藤新蔵が手掛けてから30余年が経…
信濃,長野県も雨が降り、美和ダムも高遠ダムも放水していて、観ていると、今回の災害がフラッシュバックする。 伊那長谷村の百数十戸の氏子が3最高の宮作りたいと300両の大金を集めた。33歳文治郎は、10年前、妻沼の聖天宮で仕事をした、宮大工棟梁、林兵庫…
泥を握って投げ合ったガキの頃の遊び、投げる前につぶれて、頭からかぶった泥傘を持たず雨宿りして、入れと言われて彼女の傘で、ドキドキした日。そんなもんじゃないんだ、ね、雨と泥土で、生活を一変させて、国の半分だよ、変わったのは、八王子だってテレ…
シラサギカヤツリ、教えてもらった名前。あのシラサギカヤツリ、どうなったでしょう?雨、まだ続くと・・・、家にいても、外に出ればなおさら、心配尽きないでしょう。被害はないか、買い物は出来るか、食べているか・・。 2018.7.3 箱根
関口文治郎が、妻沼の歓喜院に師匠石原吟八郎と、10里の道を急いだのは1750(推定)19歳の時。すでに、吟八郎の兄弟分、吉田茂八の弟子、のち江戸で名を残した、後藤茂右衛門や小沢五右衛門は、境内の掘っ立て小屋で、汗を流し、鑿を打ち込んでいた。 1670年…
文治郎が亡くなって、江戸後期、文治郎の兄弟分、石原常八郎の弟子たちは、自由闊達な想像力を、鑿の刃先に渾身の力を加えている。材質も、ぜいたくに厚い板に彫り込んだ重厚感に、一点一点に早まる鼓動を抑えきれない。『一見の価値あり」と教えてもらい、…